もっと知りたいIPM☆・18

感染症媒介昆虫の広域防除

ジャック・ドラゴン(Contributor)

 “2011年3月11日、日本時間午後2時46分23秒(グリニッジ標準時午前5時46分23秒)、マグニチュード9.0の地震が発生し日本本州の北東沿岸部を襲った”と世界保健機構はWHO SITREPNO 21「日本における地震と津波状況報告No.21」(2011年3月30日、マニラ時間14時30分、World Health Organization, Western Pacific Region)で詳しく報じました。

日本の国土地理院がまとめた東日本大震災の津波による浸水面積は、総計507km2にも及び、被災地は東電福島原子力発電所の放射線漏れ、建築物の倒壊に加えて衛生昆虫の大量発生という課題を抱えてしまったのです。衛生昆虫については、まず第一にハエ類の発生が、次に蚊類の発生が予想されました。果たして予想された通り、広大な湿地にハエ類の大発生があり、避難所に逃げ込んだ地域住民を悩ませ続けたのです。それに、一部避難所では病原性大腸菌O157を媒介することもあるイエバエが見られ(2011年6月13日付け朝日新聞夕刊)、深刻化が懸念されもしました。
幸いなことに蚊が媒介する感染症は認められませんでしたが、このような事態に遭遇して思い起こすのは、ニューヨーク市に突発したウエストナイル熱でしょう。衛生昆虫の大発生を招来するかもしれないときの、感染症の広域防除について考えてみましょう。

ニューヨーク市民を震撼させたウエストナイル熱

1999年の夏、ニューヨーク市は突然に発生したウエストナイル熱に翻弄されます。市街化地域では、絶対に起こり得るはずが無い疫病の発生です。同年10月18日付朝日新聞の夕刊は、その時点におけるこの感染症による死者6人、感染者は55人と報じました。
CDC(疾病予防管理センター)がこの感染症発生を公表すると、ときのニューヨーク市長ジュリアーニさんは、即刻にメーカー各社からかき集めた大量のマラソン粉剤を、航空散布するよう指示しました。有機リン剤の空散に反対する反農薬団体の抵抗を押し切っての空散です。同時に市内のドラッグストアーのリペレント(忌避剤)を残らず棚買いし、無償配布して市民がウイルス保有蚊に刺されるのを防いだのです。ニューヨークの市街地にそびえ立つ超高層ビルの間を、何機ものヘリコプターが、粉剤の帯を引いて飛び交う様をご想像ください。このジュリアーニさんの大英断が、脳炎の蔓延という最悪の事態から市民を守りました。
市街地に普通に見られるイエカ類が媒介するので、日本でもいつアウトブレイク(発生)してもおかしくない感染症です。すぐに国立感染症研究所や日本環境衛生センターなどが、薬剤や散布機器メーカーなどの協力の下に、IPMの考え方をとり入れたウエストナイル熱など感染症対策マニュアルを相次いで作成しました。

サーベイランスが大切

NY市の新興感染症発生に学ぶべきは、NY市が国の研究機関やPCOと連携して行っている、IPMの基本的要件であるサーベイランスにあります。具体的には患者が発生することになる少し前から、セントラルパークでは市の環境衛生吏員により、野生の鳥類の異常な死が観察されていました。大規模な空散が決定されるまでに、とるべき種々の対策が検討されていたのです。とくに一般大衆への対応については、マスコミが協力したそうです。環境衛生が地域との連携によるサーベイランスにあるという好例でしょう。
昆虫が伝播する感染症では、疾病が発生した時点で、すでに媒介力を持った昆虫が広く散らばっていると考えられます。したがって、発生後の手当てでは遅いのです。世界の先進都市では、IPMの出発点ともいえるサーベイランスから防除に至るまでの全てが、地方自治体との提携のもとに、PCOに委ねられることになったと言っても過言ではないかもしれません。日本の事情もこの点に関しては米国と同じと考えてよいでしょう。
感染症発生時の緊急出動なども、市街化河川のユスリカ対策やごみ処理場の発生源対策・公庭園の樹木害虫対策ならびに、ジオポリス(地下街)や高層ビル街などにおける、PCOが普段に行う平時のそ昆駆除にその基本があるのです。

広域防除における防疫薬剤の用法・成虫対策が急務

感染症発生の恐れがあるときの第一義は媒介能を持つハエ・蚊等の成虫対策です。しかし、日本にはこれだけ広い被災地を防除した経験がほとんどありません。私の知る限りでは、1964年にコレラ患者騒動を経験した習志野市ほかが行った、市街地のヘリ散実験(衛生動物16(2)1965)くらいです。この例ではマラソン1.5%粉剤とDDT10%粉剤を、10アールあたりそれぞれ2kgないし4kg散布しましたが、落下量の生物検定法による推定では、地表への到達量は放出量のほぼ半分と計算されました。そもそも日本には空散用防疫剤がありません。しかたなく通常の医薬品粉剤を用いたこと、強風下の実験だったことに加え、操縦士が市街地散布に不慣れだったとも聞きました。
このような現状を踏まえ、アメリカではどのような対策をしているか、モスキート・ディストリクトのひとつであるCMMCP:Central Massachusetts Mosquito Control Projectの例を見てみましょう。ディストリクトとは蚊の広域防除区画を指し、通常は郡単位の広さです。すでに全50州にまで定着したウエストナイル熱のほかにも、蚊が媒介する脳炎、例えば南部馬脳炎が発生する恐れもあるので、空散用の双発機やヘリコプターを保有するモスキート・アベイトメント(蚊防除)専門のPCOがディストリクトを管理します。
これらの会社が行う事業は極めて大掛かりなものですが、基本的にはIPMの考え方を踏襲し、日頃からCDCミニチュア・ライトトラップやオビトラップで綿密なサーベイランスを行っています。そして、被害が出そうになる頃合を見て広域防除に取り掛かるのです。その際の留意事項は、EPA(環境保護庁)が2005年に出した告示“NOTICE 2005-1”に詳しく解説されていますからご参考になさるようお薦めします。

どんな薬剤がどのような方法で使われているか

CMMCPが使用する緊急時の成虫対策剤2種はいずれもピレスロイド製剤です。ご承知のようにピレスロイドは水棲生物への影響が懸念されますから、IPMの観点からも、水域への投与については生態系へ影響が出ない範囲で行うとしています。
Anvil:スミスリン10%+PBO10 %( 油剤、Clark MosquitoControl Products INC.)
Scourge:ペルメトリン4%+ P B O 1 2 %( 油剤、B a y e rEnvironmental Science)の2種が使われますが、日本にも同様の製剤がありますから参考にしていただけるでしょう。
用法については、成虫対策のための緊急出動であることから、加熱煙霧(フォッグ)または非加熱煙霧(ULV)の形態で用います。ディストリクトでは航空機や車載機からの煙霧が一般的ですが、日本ではスイングフォッグ(SN-50)を用い、トラックの上から噴霧するのが良いでしょう。インドネシアやタイで頻繁に起こる大規模な洪水の際にも、デング熱媒介蚊対策にスイングフォッグ機が採用されています。
粒径5μm以上(中央値20μm)で1 分間あたりの吐出量を約350mLとし、トラックを毎時8~24kmで走らせて、煙霧の流れを観察しながら対象区域全域をくまなくカバーします。その際、煙霧粒子(エアロゾル)の径が5ミクロン未満だと、蚊成虫の虫体に付着しにくい上、ひとつの粒子に含まれる殺虫剤の量も少ないので、効果が出にくい(Bayer PublicHealth、B. L. Dietrich 1998)と考えられています。
ULVまたは加熱煙霧の粒子は風に流されやすく、また、風の流れに乗せて薬剤の到達を図ることが肝要なので、施工時の気象条件に配慮する必要があります。日本の気象庁が定めるビューフォートの風力階級表(F.Beaufort、1806)を利用すると良いでしょう。
風力階級は階級0の静穏から同12颶風まで13段階ありますが、風に流されやすい煙霧やULV粒子を的確に拡散させるには、風力0からせいぜい4 までが限度(Dietrich)です。気象庁は具体的に次のように定義(風速は日本では10分間の平均を用いる)しています。
階級1:至軽風0.3~1.5m/s(煙は風向きが分かる程度にたなびく)、2:軽風1.6~3.3m/s(顔に風を感じる。木の葉が動く)、3:軟風3.4~5.4m/s(木の葉や小枝がたえず動く)および4:和風5.5~7.9m/s(砂埃がたち、紙片が舞い上がる)※注:m/sは秒速メートル

煙霧やULVによる緊急の広域成虫対策の概要がお分かりいただけたかと思います。3・11の災害時に、空散は無理としても、ここに見るような煙霧などができていたなら、被災者の悩みも少しは解消できていたかもしれません。緊急時なら許されるでしょうが、日本には、屋外で使える広域煙霧やULV散布用の医薬品殺虫剤の承認がないのです。
一方、農薬には無人ヘリ散用DL粉剤などが登録されています。こうしたことからも、このシリーズで何度もお伝えしてきたように、殺虫剤等の一元管理の必要性がいや増します。

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