ジャック・ドラゴン(Contributor)
2011年3月11日午後2時46分、日本の三陸沖を震源に、震度7の地震が発生しました。日本の気象庁は当初、そのマグニチュードを8.8と発表しましたが、その後の調べでM9.0と訂正するほど大きなものでした。地震被害は青森、岩手、宮城、福島、茨城の各県に及び、千葉県の一部にも液状化現象をもたらすなど、南北500kmにわたる広範な地域に大きな損害を与えたと世界中に発信されました。
この東日本大震災は同時に巨大津波を引き起こし、1000年に一度とも言われる未曾有の高波が被災地を襲ったのです。三陸地方独特のリアス地形も手伝って、津波が湾内奥に届くときには、一応の対策とされた防波堤なども何の役にも立たなかったといわれます。
日本政府の国土地理院がまとめた、この大津波による浸水面積は、総計507平方㌔と記録されます。がれきに埋まる被災地は折からの雨期を迎え、地盤沈下などの影響もあって、いたるところに生じた広大な湿地に、ハエや蚊の大発生が起きたのです。
■感染症発生を防止せよ
このような環境下では腸管出血性大腸菌O157などによる食中毒の発生が懸念されます。地震が起きた3月上旬は気温も低く、オオクロバエの活動が見え始める頃ですが、気温が上昇するにつれて、食中毒の原因菌を運ぶイエバエが増え始めるのです。
読者の皆さんも良く覚えていらっしゃるように、かつて東京都の夢の島ごみ埋立地では、家庭や事業所から排出され運び込まれた厨芥に、イエバエが大発生を繰り返していました。今回の被災地は当時のごみ埋立地に似た状況になっています。水産物加工場などから流れ出た大量の仕掛品や厨芥などのほか、近郊の農作地帯で使われた堆肥類などが、大津波によるがれきと共に広範囲に撒き散らされ、イエバエ類の絶好の繁殖場になったのです。
また、蚊の大量発生は生活者の不快感を増すばかりではありません。99年にニューヨークで突発したウエストナイル熱の例を思い出してください。アメリカから遠く離れた、アフリカ大陸を流れるナイル川西側の風土病ウイルスを、渡り鳥などが運び、イエカの仲間が人に媒介したのです。このウイルスはすでにアメリカの全50州に定着したとされます。
このように蚊の仲間は突如として新種の感染症を持ち込むことがあります。ヒトスジシマカが東北地方にも広まっていることから、いまイタリアなどで猛威を振るっているチクングニヤ熱への警戒を怠らないようにと、日本でもかねてから研究者らが警鐘を鳴らしてきました。また、デング熱にも注意が必要です。この熱帯地方のものと考えられていた熱病も、もう沖縄県とほぼ同じ緯度の台湾にまで広がっていますから、近いうちに日本へ上陸するかも知れないのです。
こうした感染症が発生するおそれがある際にまず行うべきは、その感染症を媒介する昆虫類の徹底的な駆除でしょう。繁殖場所をなくすなどの措置も必要ですが、何よりも殺虫剤を使って、いまそこにいる感染能を持つ成虫を一斉防除することの方が大事です。
東日本大震災のように南北500kmにもわたる被災地では、ヘリコプターなどによる殺虫剤の航空散布(ヘリ散)が欠かせないとされています。しかし残念ながら、このような使い方ができる殺虫剤は、手持ちの「医薬品殺虫剤」の中にはないというのが実情です。
■農薬と医薬品殺虫剤
日本の殺虫剤は農作物を害虫から守る「農薬」と、ハエ・蚊・ゴキブリなど一般に衛生昆虫と呼ばれる害虫類を防除するための「医薬品」があります。農薬は農水省が農薬取締法にのっとって登録し、衛生昆虫防除剤は厚労省が薬事法のもとに承認を与えるという制度です。
では、後者の場合なぜ殺虫剤が医薬品として扱われるのかといえば、薬事法の第二条の二が「人又は動物の疾病の診断、治療又は予防に使用されることが目的とされている物」を医薬品と定義しているからです。つまり、人や動物に疾病(病気)を媒介するおそれのあるハエや蚊を防除することは、人や動物の病気の予防になるので、そのようなときに用いる物(薬剤等)を医薬品と定めているのです。
このようなことから、衛生昆虫の防除をうたう商品は、一般用医薬品の第2類医薬品もしくは医薬部外品として厚労省に製造・販売の申請を行い承認を受ける必要があります。感染症予防のための殺虫剤(防疫薬)やPMP(害虫防除業者)専用の殺虫剤など専門性の高い殺虫剤も、ドラッグやスーパーの医薬品コーナーに並ぶ家庭用殺虫剤と、法の上では同格に扱われます。(これらのことについては、このシリーズでもすでに何度か触れましたが、日本独特の制度なので理解を深めてください)
■市場の小さい防疫用殺虫剤
日本の国土に上下水道などのインフラが整備されていなかった当時、ハエや蚊の防除は国を挙げての地方自治体の大きな仕事でした。しかし社会資本の整った現在、ハエや蚊が大きな社会問題になることがなくなりました。緊急時のために防疫薬を備蓄する自治体もないに等しいでしょう。こうして極端に需要が減ってしまった防疫薬分野から、製剤メーカー(フォミュレーター)が次々と撤退してしまったのです。
その一方で、農薬分野には一定の売り上げが望めるので、新しい農薬が次々に研究開発されています。ちなみに、日本で新規に開発される農薬は、世界的にも厳しいとされる農薬取締法に基づく多面的な安全性評価に加え、化審法が求める高いレベルの環境安全性に関する要件をもクリアーしています。こうした新規開発の農薬成分は、現在使われている医薬品殺虫剤の成分よりも毒性が低いものがほとんどです。作用の現れ方が従来のものと違うものも開発されていて、今までの殺虫剤に抵抗性を発達させた昆虫にも有効なものもあります。
また、農薬の製剤は広域散布できるように成分濃度を高く設定し、使用時に1,000~2,000倍に希釈して使います。ところが防疫用殺虫剤は最大でも400倍希釈です。したがって、製剤に含まれる有効成分以外の石油系溶媒などをより多く撒き散らすことになり、環境保全の観点からも好ましいこととは言いがたいのです。
医薬品殺虫剤も元はといえば農薬です。しかも新しい農薬成分は現有の医薬品殺虫剤よりも厳しい審査を経ていますから、医薬品殺虫剤にスイッチ(転用)することができるようにすればずいぶんなメリットがあります。農薬登録時に作成した安全性資料などを、医薬品殺虫剤の申請に共用できるようにすれば、研究開発費も低減できるし、何よりも新しい薬を、早期に供給できるのです。そうなれば、上に述べたような防疫上の危機的状況も緩和されることでしょう。
■ パブリックユース殺虫剤はアメリカでも
ところで医薬品殺虫剤の開発が進まないのは、なにも日本だけの問題ではなかったのです。アメリカでも、日本と同様にパブリックユース殺虫剤(防疫薬)の開発がここ数十年停滞ぎみでした。
そのような状況下、2006年頃突然にトコジラミ(ナンキンムシ)が再発します。09年に入ると、全国の一般家庭にまで被害が及ぶようになりました。殺虫剤に強い系統のトコジラミもいて、特効薬がなかったことが全国への蔓延をとめられなかったのです。
観光業界やホテル業界はもとより、生活者のQOL(生活の質)に甚大な影響を与えるまでになりました。いまやトコジラミ防除はついに国家的な課題になったのです。09年4月にはEPA(環境保護庁)が中心になって、CDC(疾病管理予防センター)をはじめ関係7省庁に呼びかけ、横断的に連携した「ベッドバッグサミット」を立ち上げました。国を挙げてトコジラミ防除に乗り出すことにしたのです。
その結果、09年末頃には、農薬成分のスイッチや配合で新薬が導入されるようになり、トコジラミの追加適用も盛んに登録されるようになりました。このようなことができるのも、アメリカでは農薬用も衛生昆虫用も、連邦殺虫剤殺菌剤殺鼠剤法のもとにEPA(環境保護庁)が一元管理しているからなのです。
日本でも09年4月~6月に農林水産省が行った、改正農薬取締法についてのパブリックコメント募集に、農業害虫、衛生昆虫および生活害虫類(衣類害虫やシロアリ類を含む)を総合的に捉え、それらの防除に用いる薬剤を、農薬取締法と薬事法の(殺虫剤部分の)一本化による一元管理を望む声も寄せられたと聞いています。
医薬品と農薬にわたる殺虫剤を、同じ法制化に置いて登録管理すれば、安全性に優れ環境に与える影響の少ない新農薬を医薬品にスイッチできることになります。また、米国・EU諸国等が農薬などをより厳しく管理しようとする方向にある現在、国際間ハーモナイゼーションの観点からも、殺虫剤等の一元管理は日本でも必須のこととなるでしょう。