名和昆虫博物館 名和哲夫
いよいよ今回を持ちまして、私の担当分が終了します。最後にあたりまして、当博物館の歴史を来館者などからよく尋ねられる質問形式でご紹介したいと思います。その中で、害虫駆除に関する業務にいかに関わってきたのかということをご紹介できればと思います。
【質問1】名和昆虫博物館は、誰が、何の目的で何年に建てたのか?
名和昆虫博物館は名和昆虫研究所の付属施設として、名和靖の志を理解した岐阜県人の林武平氏の寄付によって建てられました。寄付金額は3万円(現在の貨幣価値に換算すると、そのまま万を億にかえたくらいかそれ以上だと思います)林氏は、共同寄附を嫌い、一人だけでの寄附ならということで、実現したそうです。1919年(大正8年)4月に竣工、その年の10月26日に開館しました。
当初は、名和昆虫研究所の活動を補佐する意味で、農作物の害虫、益虫、さらに靖の50才代以降最重要テーマとなったシロアリに関する資料などを中心に展示していました。
ちなみにこの建物の設計は近代日本を代表する建築家武田五一氏によるもので、そのため建物を見学に来られる方も少なくありません。実は、武田五一氏は、靖が教諭をしていた頃の教え子でもありました。いっしょに昆虫採集に出掛けたこともあったそうです。
【質問2】名和昆虫研究所は、誰が、何の目的で何年に設立したのか?
1896年(明治29年)4月に、名和靖(38才)が岐阜市京町にあった岐阜県農会の建物内の一角を間借りして創立しました。その後、岐阜市の要請で、岐阜公園内に移転、以降現在の地で活動を続けることになります。
運営は完全な私立で、職員の給与は、農業関係者、貴族などの有力者、一般の方々などからの寄附に頼ることが大でした。もちろん、靖自身の私財投入という部分も当然大きかったと思われます。靖の祖父は庄屋でしたから、名和家としてはある程度の財産はあったと思います。靖も研究所1本に絞る前は、教諭の仕事をしながら、各地の要望に応じ農作物の害虫、益虫の講演を行っていましたので、その頃の蓄えもあったと思います。24才から38才まで、このような2足のワラジを履いた状態でした。
つまり、靖が名和昆虫研究所を創立した時点で、それまでの活動のうち教諭の部分を取り去っただけですから、研究活動、啓蒙普及活動などその後の研究所で行う業務の基本的な部分は、すでに15年くらいの経験を積んでいたということになります。その実績がなかったら、研究所を設立するなどという無謀なことはしなかったことでしょう。
ちなみに、岐阜公園に移転するにあたって、岐阜市より1873年(明治6年)築の今泉学校を移築、提供され、それ以降、その建物が名和昆虫研究所の活動の中心となりました。1980年までは、この建物はありましたが、岐阜市歴史博物館を建てるにあたって取り壊され、明治初期の建物の歴史にピリオドを打ちました。同時期に、名和家の自宅を取り壊し、一部3階建ての名和昆虫研究所本館を建て、現在に至っています。
【質問3】名和昆虫研究所の運営状況は?
1911年(明治44年)2月に財団法人組織になるまでは、公的な補助金なしで私立の研究所として運営してきました。従いまして、経済的には大変不安定で、靖は様々な事業を起こすことによって、経済的に足りない部分を補おうとしました。
1904年(明治37年)に特許を取得した「鱗紛転写法」は、印刷技術や写真などが今のように発達していなかったため、装飾品や学校教材にも使われるなど、かなり普及しました。また、全国害虫駆除講習会を主宰し、全国から農業に従事する意気に燃えた人たちを中心に多くの関係者を集め、害虫、益虫の基本的な知識を伝える活動をしたり、「昆蟲世界」という当時なかった昆虫専門の学術月刊誌を1897年(明治30年)9月から1946年(昭和21年)6月まで戦時中を除いてほぼ毎月発行するなど、運営上必要な活動に全力を尽くしました。そのような活動はまた、ただ収益を上げるということではなく、その活動自体が啓蒙普及活動になり、結果的に大きな公益活動にもなっていました。このような活動をし続けたからこそ、林武平氏のように大勢の方から靖の活動を支援する流れができたと思っています。
財団法人組織になってから、国と県からある程度補助金がいただけるようになり、運営的にはだいぶ楽になりましたが、残念ながら補助金総額は一定で、物価が上がるのに伴って、補助金の予算に占める割合は低下していきました。さらに追い打ちをかけるように、戦争に向かっていく時世のためだんだん減らされ、2代目梅吉が亡くなる終戦の年1945年(昭和20年)には、ほとんどゼロの状況でした。
【質問4】戦後の混乱をどのように切り抜けてきたの?
梅吉亡き後を引き継いだ3代目正男は、補助金のあてもなくなったことを踏まえて、名和昆虫研究所の活動を一般昆虫啓蒙に切り替え、教育関係と結び付ける活動に力を入れました。おのずと、活動主体は付属施設だった名和昆虫博物館に移り、現在に至っています。
初代靖の時代は、まだ農事試験場など公的な研究機関や、大学の農学関係の研究組織が未熟で、靖の活動はある意味、国家の行うべき活動を一個人が行うという大きな意味合いがありました。しかし、靖の教えを受けたりして育った若者が公的な研究機関で仕事をするようになったり、食糧増産の意義を重要視した国など公的な機関が充実するに従って、補助金をカットされ自主運営を余儀なくされた名和昆虫研究所の活動分野が教育関係にシフトしていったということは、当然であり賢い方向性だったかと思われます。
正男の後を受け継いだ4代目秀雄は、もともと落語家志望だったという特技を生かし、年間100本もの講演をこなした年もあるなど、対外的活動で運営を助け、本来ここまで存続すること自体が奇跡的だと思える昆虫専門の私立博物館を存続させてきました。
【質問5】現在の運営は?
4代目秀雄の元で、限られた予算の中で博物館の展示を少しずつ見映えのするものに改良していき、徐々に入館料も引き上げ、採集用具の販売、グッズ販売、貸し出し用展示物の充実などをはかり、何とか独立採算の道を歩めるようになっています。もちろん公的な補助金は一切なしですので、安泰とは程遠いですが、多角的事業を少数の職員でやりくりしながら運営をしています。
このような状況ですので、時間的にも金銭的にも極力無駄のない活動が要求されます。そのような観点から、一般からのご質問は入館者に限るとか、業者さんからのご質問には有料でもって対応させていただいています。途中の章でも書きましたが、本来、このような質問関係に対応するためには、公的な機関などで、各目単位で最低でも一人ないし二人のトップレベルの専門家がいるくらいじゃないとできないことだと思っています。当博物館のような態勢では本来無理なのです。
しかし、なかなか受け皿がないために、頼ってこられる方も少なくありません。できないことははっきりお断りしますが、少しでも役に立てそうなことがあるならば、できる範囲のことで対応させていただいています。今までご紹介しました事例は、ほとんどがここ10年くらいにご相談いただいたものです。
終わりに
現代は、様々な技術も発達して「虫とは無縁の生活環境も夢ではない」と考える方も見受けられます。それどころか「虫?無理」と一言で拒否し、生活の場に虫が侵入して来ようものなら、大事件のように考える人も少なくありません。「『虫』なんてのは、生きる隙間さえあれば、どこにでも入り込んでくる」ということ、さらに「虫もいなくなるような世界になったら、人類はそれ以前に絶滅せざるを得ない」ということ、そしてそれを踏まえて「虫たちといかにうまく付き合って生きていくか」ということを、押し付けをせずに多くの人たちに認識していただくこと、これを主眼として、今後も名和昆虫博物館は活動し続けるつもりです。
きっと、虫に悩んでいる多くの一般の人たちと接する機会は、これを読まれている虫に関わる仕事をされている方々のほうが、私たちよりはるかに多いのではないかと思います。原因を真摯に究明して、適切な対処法で虫に悩んでいる方々の不安を取り除くという姿勢で、大いに社会貢献してくださることを期待しています。
編集から
日常で虫と遭遇する機会は誰だってあります。しばしば、それが困ったことを引き起こすことで問題になります。今回の連載では、虫で困ったことの事例、対処の事例をご紹介いただきましたが、何よりも虫たちとの向き合い方を示してくださったのだと思います。
岐阜城のある金華山のふもとに、名和昆虫博物館はあります。編集は何度も訪れましたが、美しい蝶や迫力のあるカブトムシなどの標本がずらりと展示されており、眺めているとつい時の経つのを忘れてしまいます。ここに来れば、虫に対するイメージや気持ちも変わるかもしれません。また、他の博物館では見ることができない大変珍しい蝶の標本もあれば、生きたギフチョウも展示されております。ファンにはたまらない、すばらしい昆虫専門の博物館です。
一方、当博物館は1919年に竣工し、中の柱は奈良唐招提寺にあったものを譲り受けて使っています。その歴史ある建物を見ることも楽しみのひとつとなります。ぜひ、岐阜や名古屋を訪れた際には、足を運んでみてはいかがでしょうか。
名和先生におかれましては、11回に及び寄稿してくださり、誠にありがとうございました。先生のますますのご活躍を期待しております。